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愛と勇気と缶ビール

ふしぎとぼくらはなにをしたらよいか

作文を捨てよ、街に出よう

僕は大学生のころ文学青年もどきをやっていたので、今でも文章の細かいアラが気になって気になって仕方がない。

代表的なところでいうと、blogの文章中で「〜たり〜たり」が必ず2つで1組になっていないと気持ち悪いので直したりとか。またこれとは次元が違うが、書いている段落によって一人称が「僕」になったり「俺」になったりするので推敲ののち毎回直していた。

一人称が、ひとまとまりの文章の中で異なる。これは一般的に言えば悪文であり、良くないこととされている。多分。少なくとも、小学校や中学校の作文でこれをやるとペケがつくだろうし、大学入試の小論文などでやってもNGだろう。

だが、よく考えてみれば、俺は誰かエラい人に提出する作文を書いているわけでもなければ、俺自身がエラい作家先生なわけでもない。お作法から外れた文章をblogにあげていたとしても、誰も困らない。

文章を書いていて、段落によってテンションが変わる。例えば内省的なことが書いてある段落では一人称が僕になり、バシっと何かを言い切る段落では俺になる。それの何が悪いのか?むしろ、テンションに合わせて一人称が変わるくらいの方が、人間の文章として自然なのではないか?最近ではそう思うようになった。

言葉遣いにしてもそうだ。何かを丁寧に説明する段落では「〜です〜ます」口調になり、断定的に述べる時には「だ」「である」口調になる。それで何が悪い?その時それが相応しいと思って書いたなら、後で直す必要なんてないじゃないか。

繰り返しになるが、俺達は作文を書いているわけじゃない。だから、下らない文章作法からは自由になっていいのだ。どうせ皆、まともな日本語なんて書いてないんだし。

というわけで、今後はそういう細かい点を気にしないことにしました。

オチ

だが、「すべからく」を「すべて」という意味で使ってる奴!てめーは駄目だ!

すべからくとは (スベカラクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科