愛と勇気と缶ビール

ふしぎとぼくらはなにをしたらよいか

クリント・イーストウッド「ミスティック・リバー」

「アメリカン・スナイパー」をきっかけにクリント・イーストウッド監督の映画を観るようになった。「グラン・トリノ」や「許されざる者」、「ヒア アフター」などなど、どれもだいたい観て損はないクオリティの映画だが少し物足りないな、と思っていたところに「ミスティック・リバー」が来た。一番の傑作と言えるかは(全作品を観たわけではないこともあるし)分からないが、一種の傑作、あるいは怪作であることは間違いない。

詳しい解説は既に色々なサイトでなされているので措くとして、この映画では「少年三人が歩道にイタズラをして、それを見咎めた警官(実際は小児性愛者)に一人が連れ去られ、暴行される」という冒頭のシーンが物語のキーになっている。

実際に連れ去られたのはデイヴという少年なのだが、それを見送ったジミーとショーンも「あの時連れ去られたのが自分であってもおかしくなかった」「なぜ助けることができなかったのか」という思いを引きずったまま生きることになる。実際、たまたま「少し遠くに家がある」と正直に申告したがためにデイヴが連れ去られることになったわけで、ジミーやショーンが連れ去られていても何らおかしくはない状況だった。

「他人と自分の違いは一体なんだろうか」と思うことがよくある。もちろん、生まれた所も生まれた年も、能力や外見も違うと言えば違うのだが、それは自分たちが思っているほどの差なのだろうか。何かが自分には起こって当然で、他人には起こらなくて当然。あるいは何かが自分には起こらなくて当然で、他人には起こって当然。そんなことが本当にあり得るのだろうか。

年を重ねるにつれて、幸福な話を聞くこともあれば、不幸の範疇に入るような話を周りから聞くことも多くなった。誰かの身に起こったことが、自分の身に起こらなかったのは何故だろうか。それは自分が賢明な選択をしたからだと本当にいい切れるのだろうか。それは、何らかのきっかけで自分の身に起こっていても何らおかしくなかっただろうし、これから先に起こっても不思議ではないのではなかろうか。

今の自分の境遇がどうあれ、「あるいは、そういう巡り合わせになったのは自分だったかもしれない」という思いを持ち続けることで、人の痛みに無自覚な人間になることを多少なりとも避けられるのではないか。

…ということを考えさせられる映画だった。

ちなみにではあるが、ジミー役のショーン・ペンはアカデミー賞の主演男優賞を獲得したらしい。

映画を観ながら「いい演技だなぁ」とは特に思わなかったが、演技に関して何の感想も持たないからこその名演技なのだろう。この映画のショーン・ペンは完全にジミーそのものだった。他の映画でショーン・ペンが出てきたら僕はジミーを思い出すだろう。つまりはそれがいい演技ということなのだろう。

ケビン・ベーコンは「ベーコン数」でしか知らなかった、というかおそらく何らかの作品で見たことはあっても認識していなかったのだが、今回のショーン役で「おお、これがケビン・ベーコンなのか」と思った。

ケヴィン・ベーコン - Wikipedia

ミスティック・リバー - Wikipedia