愛と勇気と缶ビール

ふしぎとぼくらはなにをしたらよいか

自分の中の保守主義と戦うためのアレとか

保守主義、とか保守性、と言ってしまうとそれはあくまで頭の中にある「考え方」のように聞こえるんだけど、時々これらはほとんど身体的なレベルのものなんではないかとも思います。

要は、この世には新しいものが出てくると必ず「今までの○○と何が違うのか」「○○があれば充分だ。これは必要ない」と脊髄反射で発言する人が一定数いるってことです。もちろん新しくて役に立たないものも一杯あるんですが、それが本当に何であるか考える前に「それは必要ない」と脊髄(というか脳)が思いたがるわけです。

そう思いたくなる気持ちは非常によく分かる、というか自分の中にもそういう「身体的なレベルでの保守主義」を感じることが多々あるのでこのエントリを書いているわけです。

一つのツールを使い込んで、それについて思い入れが強くなるほど、人はそれに執着するようになります。例えば、あなたが膨大な時間をかけて一つのプログラミング言語を勉強したとします。その場合に新しく登場したプログラミング言語に対して抱く感情の中には「(自分が勉強した)○○があれば別にいいんじゃないか」「なんでそんなものをまたわざわざ作るんだ」という気持ちがどうしてもいくらか混じる。

これは別に、プログラミング言語であろうがWebフレームワークであろうがサービスであろうが同じ話で。

鳴り物入りで登場した新しい「何か」、それさえなければ既存の何かについてベテランであるあなたの世界はそれ自体で完結して、何の歪みもありませんでした。



「歪みねぇな!」



ところがそこに皆に持てはやされて黒船がやってくるわけです。「あなたの使っている○○はもう古いのかもしれない」という黄色い声と一緒に。あなたは当然、不快になります。なぜ、自分が既に持っている○○ではいけないのかと。なぜ自分の完結した美しい世界を脅かすのかと。


何か一つのものについて深い知識を得る、それは素晴らしいことで、それ自体には何の悪い部分もありません。

ただ、そのせいでフットワークが悪くなってしまっては何の意味もありません。特に、Webを含む情報技術の分野ではそうだと思います。


永遠に続く企業も、永遠に隆盛するサービスも、永遠に使われ続けるフレームワークプログラミング言語もこの世にはありません。GoogleTwitterもRoRもJavaも、いつかは塵と消えるでしょう。

怒涛のような進化の中で、我々の生きられる時間はどうせ限られているわけですから、せっかくなら流行っているものに節操なくどんどん乗っかっていこうかと。踊らにゃソンソン、てのはそういうことです。




というようなことを、その昔Blogを批判していた人が今度はTwitterを同じ論法で批判する云々について考えました。

長々と書きましたが、「我々は放っとくと自然に保守的になる生き物なので、意識的に自分の中の保守主義を殺していかないとオジサンになるよ」ってことです。