愛と勇気と缶ビール

ふしぎとぼくらはなにをしたらよいか

無料のサービスって怖い

最近、Tumblrで「Googleであなたが調べるとき、Googleもまたあなたを調べているのだ」というテキストを見た。とてもオシャレ、かつ秀逸だ。元ネタはニーチェの「深遠を覗きこむとき、深遠もまたあなたを覗き込んでいるのだ」という箴言だろうが、ニーチェとGoogleという取り合わせ、僕はこういうのに弱いのだ。

また、どこの誰が言っていたのかは忘れたが、「無料で受けられるサービスにおいては、あなたはお客さんではなくて実は商品なのである」という格言めいたものがある。まこと、その通りだと思う。

Googleのように、色々なサービスでかき集めた情報から広告を表示したり、広告枠を売ったりしている企業においてもそうだし、無料のユーザを集めて、ゲーム内の世界に階層と経済を作った上で一部のユーザに金を落とさせるソーシャルゲームにしてもそうだ。

どんな企業も慈善事業でサービスを提供しているわけではないので、無料でサービスを受けるということは、何らかの形で自分の行動や情報が、サービス提供元が利益を得るための「具」になることを暗黙に受け入れるということでもある。誰もそんなことは明確には言わないが。

今の時点でGoogleの各種サービスが使えなくなったら、僕はとても困る。なにせ、Google Playのアカウントが停止されたついでにGoogle Walletが使えなくなり、Androidの有料アプリが買えなくなった程度のことでも少々困っているくらいだから。

要はGoogleにキンタマ握られているのだ。一個人のキンタマが一企業に握られる、とても恐ろしいことだ。だが、一国家や一電力会社や一異性にキンタマ握られて暮らしているのは人間には割とよくあることなので、実はあまり恐ろしいことでもないのかもしれない。

今となってはキンタマ握られているので、Googleのサービスを使い続けるために多少のお金が必要になったとしても僕は払うだろう。でも、最初にGoogleのサービスを使いはじめる時にそれが有料だったら、僕はそれを使わなかっただろう。僕はGoogleに利潤をもたらさなかっただろう。無料のGoogleサービスを使い始めて既にそれに依存している僕は、Googleに利潤をもたらすための商品になった。

そういった暗黙のねじれがあるために、無料のサービスは怖いな、と思うようになった。「これこれの金額を月額で頂きます」とはっきり言い切っているサービスの方が、なんだか安心できるような気がしている。もちろん、そのサービス提供元が僕を商品にしないという保証はなにもない。利潤を出す方針が明確に定まっている企業の方が、何か怪しげな目的にデータを流用しないような気が、なんとなく、する。それだけ。


つい先日、熱海に一泊二日の旅行に行った。

特に登録した覚えはないのだが、予約した宿に行く道中でGoogleマップを見たところ、宿の位置に「x月y日〜x月z日」という表示がされていた。多分Gmailから宿泊予約メールを拾ったのだろう。

何も心配する必要はない。ディストピアに住む人間は例外なく、そこが便利で幸せな社会だと思って暮らす。