読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

愛と勇気と缶ビール

ふしぎとぼくらはなにをしたらよいか

紙の本のこと

電子書籍がああだこうだ、紙の本はああだこうだ、みたいな議論は既に聞き飽きているので、繰り返さない。巷に溢れる話は既にここに書かれたものとして読み進めて頂く。

僕自身は電子書籍で本を読むこともあれば、紙の本を買うこともあり、本を読むにはどちらかでなければならないという風には思っていない。

ただ、親の本棚にある文庫本をふと手に取るとか、あるいは祖父母の家にあった全集を堀り出してくるとか、そういった「偶然の出会い」というものがやっぱり電子書籍にはない。それで、将来生まれるかもしれない子供が偶然手に取る機会を作るために、今後買う本で残したいものは紙の本にしても良いのではないかと思った。多少、かさばることになっても。

偶然の出会いといえば、奥さんの母はあまり固い本を読まない人だったが、奥さんが家を出るにあたって残していった本を徐々に読むようになり、「海と毒薬」が気に入って最近は遠藤周作を読んでいるらしく、「沈黙」を読んで映画も見に行きたいとのこと。

本の機能はあくまで内容を伝えることだが、こうして人の手を渡っていき何かを目覚めさせるはたらきを忘れてしまうと片手落ちになってしまう。

その昔は応接間に読まないでも文学全集を並べておくのが習いだったらしいが、そうした一見無駄ともみえる本も、後から誰かが持ち出して何かの糧になることはいくらもあったのではないか。現に、父方の実家にあった全集を掘り出してきてスタンダールの「赤と黒」などを読んだような記憶が僕にもある。

あるいは、電子書籍でもこうした偶然の出会いを演出するような機能がいずれは開発されるかもしれない。が、そうした発想が出てくるような世の中でもなさそうだ。

クリント・イーストウッド「ミスティック・リバー」

「アメリカン・スナイパー」をきっかけにクリント・イーストウッド監督の映画を観るようになった。「グラン・トリノ」や「許されざる者」、「ヒア アフター」などなど、どれもだいたい観て損はないクオリティの映画だが少し物足りないな、と思っていたところに「ミスティック・リバー」が来た。一番の傑作と言えるかは(全作品を観たわけではないこともあるし)分からないが、一種の傑作、あるいは怪作であることは間違いない。

詳しい解説は既に色々なサイトでなされているので措くとして、この映画では「少年三人が歩道にイタズラをして、それを見咎めた警官(実際は小児性愛者)に一人が連れ去られ、暴行される」という冒頭のシーンが物語のキーになっている。

実際に連れ去られたのはデイヴという少年なのだが、それを見送ったジミーとショーンも「あの時連れ去られたのが自分であってもおかしくなかった」「なぜ助けることができなかったのか」という思いを引きずったまま生きることになる。実際、たまたま「少し遠くに家がある」と正直に申告したがためにデイヴが連れ去られることになったわけで、ジミーやショーンが連れ去られていても何らおかしくはない状況だった。

「他人と自分の違いは一体なんだろうか」と思うことがよくある。もちろん、生まれた所も生まれた年も、能力や外見も違うと言えば違うのだが、それは自分たちが思っているほどの差なのだろうか。何かが自分には起こって当然で、他人には起こらなくて当然。あるいは何かが自分には起こらなくて当然で、他人には起こって当然。そんなことが本当にあり得るのだろうか。

年を重ねるにつれて、幸福な話を聞くこともあれば、不幸の範疇に入るような話を周りから聞くことも多くなった。誰かの身に起こったことが、自分の身に起こらなかったのは何故だろうか。それは自分が賢明な選択をしたからだと本当にいい切れるのだろうか。それは、何らかのきっかけで自分の身に起こっていても何らおかしくなかっただろうし、これから先に起こっても不思議ではないのではなかろうか。

今の自分の境遇がどうあれ、「あるいは、そういう巡り合わせになったのは自分だったかもしれない」という思いを持ち続けることで、人の痛みに無自覚な人間になることを多少なりとも避けられるのではないか。

…ということを考えさせられる映画だった。

ちなみにではあるが、ジミー役のショーン・ペンはアカデミー賞の主演男優賞を獲得したらしい。

映画を観ながら「いい演技だなぁ」とは特に思わなかったが、演技に関して何の感想も持たないからこその名演技なのだろう。この映画のショーン・ペンは完全にジミーそのものだった。他の映画でショーン・ペンが出てきたら僕はジミーを思い出すだろう。つまりはそれがいい演技ということなのだろう。

ケビン・ベーコンは「ベーコン数」でしか知らなかった、というかおそらく何らかの作品で見たことはあっても認識していなかったのだが、今回のショーン役で「おお、これがケビン・ベーコンなのか」と思った。

ケヴィン・ベーコン - Wikipedia

ミスティック・リバー - Wikipedia

料理のあれこれ

料理というのはよっぽど変なことをしなければある程度美味しく作れるもので、料理がうまく出来ないという人の多くは単に場数をこなしていないか、そもそも自分自身があまり食べることに興味がないか、あるいは上達する前に変にアレンジを加えて失敗しているかのどれかだと思われる。

僕が一人暮らしを始めたのは大学生に入った時で、当時作っていたのは「野菜炒め」「豚キムチ」のようないかにもな料理だけ。その後就職で東京に住み始めた後はキッチンが狭くコンロの性能も低かったので全く自炊はしなくなっていた。

数年前に今の奥さんと同棲を始めて、それと決めていたわけではないが3口コンロのある部屋に住むことになった。自分一人のための料理よりも他の人の口に入る方がやる気も出るというもので、奥さんの持っていたレシピ本から拾ってきたり、クックパッドの人気ランキング上位にありかつ簡単な料理をよく作るようになった。

この時点である程度の基礎が出来たというか、あまり大きな失敗はしないようになったのもあってか、なくてか、「大人の肉ドリル」というレシピ本を買って一時期肉料理に少しハマった。いつのことだったか、一年前くらいだろうか。

大人の肉ドリル

大人の肉ドリル

この本は、節約する人に貧しい人はいない。に記載があったのでそこから辿ったものと思われる。

あと、パルという料理blogを読み始めたことにも多少の影響は受けているのかもしれない。

肉を美味しく調理するにはやっぱり低温調理が良いのだろうが、まだその辺りは試していない。代わりにはならないがごく最近圧力鍋を買った。

パール金属 圧力鍋 3.5L IH対応 3層底 切り替え式 レシピ付 クイックエコ H-5040

このパール金属の圧力鍋は3500円くらいで、「買ったけど結局あまり使わなかった際のダメージ」が小さいと判断してあまり悩まずに買った。それほど頻繁には使っていないが、ブリ大根や牛すじカレーなど、普通の鍋でやるとやたら時間のかかってしまうような料理の時短に役立っている。

ごく最近の話題としては、「ラ・ベットラ」落合務のパーフェクトレシピ (講談社のお料理BOOK)というレシピ本を買った。この本に乗っているレシピはそれなりに手数は多いのだが、省略されている工程がないのでこの本に忠実に作れば結構美味しいイタリアンが作れる。

「ラ・ベットラ」落合務のパーフェクトレシピ (講談社のお料理BOOK)

「ラ・ベットラ」落合務のパーフェクトレシピ (講談社のお料理BOOK)

「なぜそういう工程で作るか」についても紙面が書かれており、調理者の裁量に任された部分が少ないのでレシピ本として大変優秀だと思う。最近はこの本のレシピに沿ってパスタばかり作っている。

この本のレシピで使うパルミジャーノ・レッジャーノを削るためにMicroplane プレミアム ゼスターグレーター ブラック MP-0611を買ったのだが、肝心のパルミジャーノ・レッジャーノが「コストに見合うほど美味いか?」という部分が現時点では不明なので、ひょっとしたら普通の粉チーズに戻すかもしれない。

わざわざ買うほどではないが、たまに欲しくなるような食材(バジルとか大葉とか)の水耕栽培を始めてみるか、という話を昨日奥さんとした。

自宅でうまいものが作れるので、以前より外食欲が減った。外食は雰囲気その他を味わうものでもあるので、家メシが旨くなったからといってゼロにするようなものでもないのだが…

年末に読んだ本 (2016-2017)

旅行もしくは帰省するときは、荷物が増えるのが嫌なので紙の本ではなくKindle Paperwhiteを持っていくことにしている。

で、新幹線の中で退屈しない読み物がほしいなーと思って舞城王太郎を選んだ。

世界は密室でできている。 (講談社文庫)

世界は密室でできている。 (講談社文庫)

「世界は密室でできている。」は主人公の親友ルンババが名探偵役となり、様々な密室の謎を解き明かしていくストーリー…なんだけども、とにかく展開が早い。

事件が起きたと思ったらほぼその次の瞬間にルンババが解決してしまう。だからといってカタルシスがないかといえばそうでもなく、謎が生まれ解決されていくそのスピード自体がカタルシスを生む。

進撃の巨人も割と展開が早い漫画だと思うが、僕はああいう風に出し惜しみをせずどんどん伏線を回収していく作品が好きだ。その逆に、何年越しで伏線を回収してスゲー!とか言われている作品にはあまり感心しない。ワンピースとか。

「世界は密室でできている。」がミステリに属するのか否かはよく分からないが、ミステリのお作法なんてどうでもいいと思っている。面白ければいいのだ。

煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)

これ、舞城王太郎のデビュー作らしい。なるほどなあ。冒頭がカタカナの多いライト小説っぽくて馴染み辛いかと思ったが、すぐ主人公がアメリカから日本に戻ってきて読みやすくなった。

これもミステリ的な筋立てではあるのだが、全体としては主人公とその家族のサーガ的な小説。なぜだか、「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を思い出した。

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない  A Lollypop or A Bullet (角川文庫)

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet (角川文庫)

主人公の無力感とか、世界の見え方が似ていると言えば似ているのかな。感覚的な話にしかならないけども。

阿修羅ガール

阿修羅ガール

「阿修羅ガール」は、話が別世界に飛ぶところで脱落。

ストーリーが中断されたり過去に行ったり別の話に飛ぶ小説が嫌いというわけではなく、むしろそういった趣向は好物とさえいえるのだけど、これが合わなかったのは完全に別の話が始まるのではなく「それまでのストーリーの続きの比喩」的な読み方をしなきゃならないのかな?という部分にひっかかったから?なんだか読むモチベーションが削がれてしまった。

問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 (文春新書)

問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 (文春新書)

これは親父が貸してくれたので読んだ。トッド先生は相変わらずトゥルー知識人という感じで、尊敬できる。このようにデータに基づいて社会について語れる人は少ない。

宿屋めぐり (講談社文庫)

宿屋めぐり (講談社文庫)

町田康の描くネオ時代劇。変に内省的で饒舌な主人公が、語彙の上ではほぼ現代と同じになっている江戸時代(?)をプラプラするストーリー。そういう意味では「パンク侍、斬られて候」と同じ。

これも明らかに時代劇という枠を超越した作品なので、真面目なそれを期待して読まないほうがいいだろう。町田康のスーパー饒舌体には、読んでいる人間の思考を侵す力がある。こちらが考える前に主人公が考えてしまうというか、考える間を与えないというか。考えるというのも言葉の働きなので、特定の言葉づかいをしていると同じようなことを考えるようになる…といっていたのは高橋源一郎だったか。とにかくそういうことである。

文章のありか

自分のblogの記事がRSSに流れてきて驚いた。だから何だ、というわけではないが。

おなじ文章でも、PCで読むのとスマートフォンで読むのではやはり印象が違う。スマートフォンでも、ブラウザで個別記事を読むのとRSSリーダーの中で読むのでは違っている。

文章を書くことにしてもそうで、パソコンで書くのとスマートフォンで書くのは違っている(今これはスマートフォンで書いている)。当然、紙にペンで書くとまた違った文章になる。紙に書くのとパソコンのキーボードで打つのは全然違うのだ、というのを僕は奥さんとの交換日記で学んだ。

こうした違いを理解しない人も世の中にはいるのだろう。そうした人はおそらく人間の頭の中に不変の「表現したい内容」があって、それを書き出すのだから媒体が何であっても同じ文章になるはずだ、という貧しい見方をしているのだろう、と僕は勝手に想像する。

人間が言語を使ってそこにある内面を表現するのだ、というナイーブなものの見方はある時代に一旦否定され終わりを迎えたのだけど、その前時代に留まっている人はやはりいて、それ自体が悪いということはない。新しい考え方が常に正しいわけではないし、それを知っているから偉いわけでもない。

ただ、ものごとの機微に明らかに鈍感な人というのはいて、それを指すのに貧しいという言葉を使うことはある。