愛と勇気と缶ビール

ふしぎとぼくらはなにをしたらよいか

「私の男」、あるいはまっすぐ飛んでこないボールをキャッチしていくこと

桜庭一樹の「私の男」を一晩で読み返し、次の日の午後に映画の「私の男」を観に行く、というオレオレ趣味満開な週末を過ごした。本来こういう時間の使い方をしたいからこそ働いているわけだが、中途半端な向上心や危機感のせいで普段はこういうことがあまり出来ない。哀れ、現代の個人。

で、結論から言うと映画は微妙だった。というか、桜庭一樹の文章によって喚起される俺の脳内「私の男」の圧倒的な情報量および解像度に2時間の映画では全然追いつかなかった、というのが正しいか。つまり俺も、ご多分に漏れず原作厨力を存分に発揮して「俺の思ってる『私の男』じゃない!ダメ!」という裁定を皆さんの前で下しているというわけなのだよ。

さて、映画の話はどうでも良いとして、原作の小説「私の男」は桜庭一樹の作品の中で僕が最も好むものだ。「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」や「赤朽葉家の伝説」も割と好きなのだが、「私の男」はブッチギリで一位に輝いている。

どうしてだが分からないが、この小説の第一章「花と、ふるいカメラ」を読むと涙がポロポロ出てきてしまうのだ。といっても、お涙頂戴なシーンが連続するわけでもないし、難病にかかったヒロインが世界の中心で死ぬわけでもない。ドライでウェットで少し異常な、養父と娘の別れがあるだけだ。

それは、二回目に読んだ時も変わらなかった。何が悲しいでもない、しかし涙が出てくる。内容には表れてこない、桜庭一樹の文章に込められた喪失感、取り戻せない何か、過去から続いてきたが今はもうそこには無いもの、それらが脳の切なさを司る部位に突き刺さってくるのだろう。

(ここで、暑苦しい夏の夜中に、文庫本を読んでベッドに寝そべりながら、涙を流す三十路間近のオタク男性を想像して頂きたい。お分かり…頂けただろうか?)

その涙腺のいささか緩んできた俺は、映画を見る前に、「私の男」というワードで下調べサーチ(?)をしたのさ。そしたら読書感想サイトみたいのが引っかかって、それを見て残念な気持ちになった。

どうして残念な気分になったか?を説明すると少し長くなるが、要は、「私の男」というのは父と娘の近親相姦がストーリーの主軸になっているんだわ。別にテーマとかそういうんじゃなくてね。

で、感想サイトに投稿している人のいくらかが、見事にこの近親相姦の部分に引っかかってしまっていたのだ。つまり、愛だとか何とか言っても「虐待」「洗脳」じゃないのこれ?と、現実世界の倫理や常識をもって、作品の中の人物を裁いてしまっている。

よし、一旦落ち着こう。まず、あらゆる人にはあらゆる感想を持つ権利がある。だから、上記のような感想を持つな、小説は現実を一旦カッコに入れてから読むもんだ、と言う気は全くない。どんな感想を持つかは個人の自由に委ねられている。が、同じ本を読むにしても、その本に込められた様々な意味と可能性を「縮退させてしまう読み」を行うよりは、逆にそれらをより豊穣にする読み方をした方が人生お得ですよ、ということだけは言えるだろう。

ここで言う「縮退させてしまう読み」とは、現実の自分の頭の中にある価値観・思想・宗教などを一旦忘れてしまわず、それらをそのまま小説の中に持ち込んで、判断の基準にしてしまうことだ。

もちろん、そうした現実の価値観を完全に捨てた上で本を読む、なんてことは人間には出来ないわけで、一時的に忘れたフリをする。忘れたフリをしているうちに、登場人物の持っている、あるいは作品全体に瀰漫している雰囲気・価値観が脳に侵食してきて、それにシンクロできるようになる。もちろん真面目に考えれば近親相姦は気色悪いし、実際に淳悟と花のような親子が近くに居たら僕も「それは体のいい虐待だ」という判断を下すかもしれないが、それとこれとは別のこと。小説にダイブするには、一旦そういうことは忘れた上で作者の紡いだ世界に入場しなければならない。

いやいや、別に「キモッ」と思って本を閉じたっていいんですよ、別に。ただ、勿体無いなーって思うだけでね。それだけの理由でこの小説を切ってしまうのは。

僕の好きな小説家、高橋源一郎先生は、ある時、こういったのさ。「小説を読むのはキャッチボールをするようなもんだ」って。

いや、キャッチボールじゃなくて普通にピッチャーとキャッチャーの話だったかな?大枠は合ってるから、どちらでもいいんだけどね。

小説を書く人は、こちらにボールを投げてくる。こっちのグローブめがけて、ゆっくり、取りやすい球を投げてくれる人もいれば、ものすごいスピードで、こっちが思い切って体を動かさないとキャッチできないような球を投げてくる人もいる。

初めは誰でも、自分の方に飛んでくる、とりやすいボールしかキャッチできない。色々なボールをキャッチしていくにつれ、速いボールや、とんでもない所に飛んでくるボールも、だんだん捕れるようになるんだ。

桜庭一樹先生は、普通とは少し外れた所に、まあまあのスピードでボールを投げた。さっと動かないと、取りこぼしてしまうかもしれないボールだ。でも、そのボールをちゃんと受け止められた時、その人が味わえる切なさ、なんとも言えない感じ、それは普通のボールよりも格別なんだ。

(ちなみに、高橋源一郎先生のデビュー作、「ジョン・レノン対火星人」は、結構きわどい線を転がるボールだ。キャッチに自信のある人は、試してみるといいかもしれない。)

だから、僕が言いたいのは、みんなもっと色んなボールを捕れるようになって、キャッチボールを楽しもうぜ!という、単にそれだけのことなんだ。

私の男 (文春文庫)

私の男 (文春文庫)

「私の男」はいいですよ。